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陰気なサーカス

えとぶんしょうをかくそんざい

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京都レポ 2018~チンアナゴとパリピを添えて~

本記事は2018年科学世紀のカフェテラスに参加するため、11/10(土)、12(日)の二日間で訪れた京都のレポートです。


一日目(11/10)


 初めに、今回の旅を共にしたイかれた仲間を紹介するぜ。
 僕の大学のフレンズであるシオミシューコ(偽)に同行してもらいました。某アイドルの塩見周子とは何ら関係はありません。七歳のJKです。

 前日まで曇りや雨が続いていましたが、当日はよく晴れていて、公共交通機関も特に乱れなく、何の問題もなく京都へ辿り着く事が出来ました。
 到着したのは10時30分程。とりあえず京都駅前のカフェ・ヴェローチェで一休み。夜行バスより圧倒的に高いQoLを備えた新幹線ですが、やっぱり疲れる事には疲れますよね。今後の方針を定めるためにも、一度腰を落ち着けたかったというのもあります。

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ちなみに僕は珈琲で舌を火傷しました。ほら、普段自分で淹れた珈琲ばっかり飲んでるから、火傷するレベルで熱い珈琲に慣れてないんですよ。
 15時からライブ会場が開くので、移動時間も加味して3時間程の時間をつぶす必要があったので、京都水族館に向かいました。

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 京都水族館の名物と云えば、イルカとペンギンです。どちらも飼育にお金のかかる生き物なので、それなりの規模の水族館でしか展示できません。設備の綺麗さも併せて、中々お金持ちの水族館なのかなと。一年ぶり二回目に訪れて、そんな感想を抱きました。しかし、イルカショー、ペンギンのエサやり、いずれのタイミングを逃すという間の悪さを見せてしまいます。眠そうにしているペンギンも可愛いんですけどね。また、推しペン総選挙なるイベントもやっていました。アイドルペンギンユニットのセンターを決めるそうです。僕には見分けが付かないので、よく分かりません。
 メインディッシュを逃して少し落胆していると、訪れたのが11/11日の近日という事もあり、とあるイベントをやっていました。
 11/11と云えば、そう「チンアナゴの日」です。
 チンアナゴの展示が大きく拡大されており、チンアナゴのエサやりも見ることが出来ました。あいつら、体長400mmもあるそうで、見えている顔は氷山の一角ということですね。
 チンアナゴの展示の付近でチンアナゴくじという一回1000円のくじ引きが行われており、一等は巨大なチンアナゴのぬいぐるみでした。
「明日のイベントの席に居るの、あのチンアナゴのぬいぐるみでいいんじゃないかな」
「チンアナゴもスチームパンクとか書くんだ」
「clown=チンアナゴ説」
 という訳で、clown改めチンアナゴです。よろしくお願いいたします。


 水族館では一時間程度しか潰せなかったので、近くにあった本願寺の周りをぐるっと一周し、京都駅前に戻り、昼食をとりました。五右衛門というパスタのお店で、どうやら全国チェーンのようですね。きのこのパスタ、美味しかったです。一番のツッコミどころは、店の前の「渋谷スペイン通り」という看板。
「渋谷でもなければスペインでもないんだけど」
「東京ドイツ村的な」
「ここは千葉だったか」


 次に向かうのが京都FANJ、ライブ会場。あの日視た幻想5の開催場所です。

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 二回目の参加ですが去年は台風と宿のチェックインの時間の都合から途中で抜けなくてはいけなかったので、最初から最後まで聴けたのは今年が初。一言で云うと、めっちゃよかった。
 同人小説書きにあるまじき語彙の貧しさですが、本当によかった。大体の曲は知っていましたが、目の前で演奏されると、とても新鮮ですね。一番驚いたのは、去年聴けなかったGET IN THE RINGの演奏。Voのみぃの歌が圧倒的で、魅了されました。CD音源よりも上手いまであるんじゃないかな、という迫力がありましたね。元々好きなグループでしたが、一層好きになりました。

 台風に追われないによって生じる圧倒的な時間の余裕を噛み締めながら夕食をライブハウスの近くのガストでとり、ホテルに向かい、特に問題なくチェックインして就寝。一日目は終了です。


二日目(11/11)



あまり寝てません。具体的には二時間くらい。とにかく眠りが浅くて数十分おきに時計を確認していました。ベッドが悪いとか枕が悪いとかそういう話じゃなくて、多分精神的なお話。冬コミの時に興奮して眠れなかった誰かの気持ちが、少し分かった気がします。
 前日に買い込んだパンを朝食にして、支度をすませて9時前にチェックアウト。その足で京都駅前のカフェ・ヴェローチェに向かい紅茶をキメます。英国紳士たるもの、紅茶は欠かせませんからね。
 ヴェローチェに向かう途中で遭遇したのが、茶髪にフォーマルな法被のような衣装を着た集団です。駅前にたむろし、髪の毛をセットしていました。
「パリピかな?」
「たぶん」
 ヴェローチェを出た頃には居なくなっていたのですが、京都秘封の会場、東山駅へ向かう途中の地下鉄でまさかの再開を果たします。そして、何故かパリピも東山で降車。
「パリピも京都秘封に?」
「まさか」
 もちろんそんな事はなかったようで、途中でどこかへ曲がっていきました。調べたところによると「龍馬よさこい」というイベントに向かう一行だったようですね。
 大きな鳥居を潜れば、みやこめっせは直ぐそこでした。

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 結論から云うと、内定でした。
 ちなみにグレードは
合格 < 優勝 < 内定です。

 新刊は予備分除いた全てが売れ、既刊も10冊程売れました。多くの方に手に取って頂けて、本当に嬉しい限りです。内容は割と尖ったものなので、楽しんでもらえるかどうか非常に不安ですが……。
 それと、とても嬉しかった事がありました。前作、箱庭の感想を貰えた事です。
 普段僕は他のサークルと交流を持つ事なく、内容について誰かに相談することもなく、本当に一人で黙々と小説を書いています。そうすると、時々疑問に思うんですよね、何で小説書いてるんだろうか?と。ぶっちゃけ誰も僕の本なんて読んでないし、筆を折っても誰も困らないし悲しまないよなって。
 作品として作る以上は読者がいて、その対象の事を考えずには小説は書けません。同人だから好き勝手にやればいいというのはそうなんですが、それだけではやっていけないんですよね。壁に向かって小説を書くのは虚しくてとても辛いものです。
 そんな中で、イベントで感想を貰えると、小説書いててよかったって思いますよね。本当に嬉しかったです。誰か一人でも僕の本を読んで面白いと思ってくれる人が居るなら、小説を書き続けようという気力が湧いてきます。最初のイベント、去年の京都秘封から毎回僕の本を買っていって下さる方もいて、本当に嬉しい限りです。
 今回のイベントで僕の本を手に取って頂いた方々に、改めて深い感謝の気持ちを。ありがとうございました。楽しんでいただければ幸いです。

 内定の後、疲労感と共に京都駅へ向かっていると、見覚えのある集団が。
「パリピだ……」
 パリピでした。

 その後は関係者各位にお土産を買い、新幹線に乗り帰路につきます。

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 去年と比べると二回目である程度の勝手が分かっていた事や、台風に遭わなかった事などから、非常に落ち着いた旅になりました。去年が異常だっただけという説もありますが。
 何はともあれ、最高の京都旅行でした。
 できれば、来年も参加したいですね。


 以上簡易的なレポでした。
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理解されようとしない事

武蔵野美術大学の芸術祭に行ってきました。
学園中央にある広場では様々な演目があったようで大いににぎわっていたようでしたが、僕は人混みが苦手なのでずっと展示に逃げていました。展示品は主に絵画で、テーマごとに棟が分かれています。一日であれらを全て見て回るのは、よっぽど雑に見て回らない限り到底不可能だったので、パンフレットを参照して選択的に見て回りました。

最初に入ったのは油絵、日本画の展示を行っている棟です。
まさか、はじめに入ったこの棟を見て回るのに一時間以上かかるとは思っておらず、驚愕しました。そんなにのめり込んで見ていたのかと。特に抽象絵画の油絵に魅入ってしまいました。
以前、具体的には僕が美術部に所属して絵を描いていた頃は写実主義の絵が好きでした。写真のように緻密で繊細な絵が好きで、逆に印象派から派生したような絵はあまり好きではありませんでした。しかし、改めて抽象絵画を眺めてみると、凄く面白いと感じました。理由は分かりません。でも、人の感性なんていくらでも変わるものです。それに好き嫌いに理由を求めるというのも、難しい話でしょうから。
抽象絵画の絵の一番素敵なポイントは、作品が理解されようとしていない所だと思います。
写実主義の絵というのは、明確な対象物があり、それを鮮明に表現することを目的にしています。ありのままを捉え、ありのままを伝える事を主眼に置いた絵です。それに対して、抽象絵画の絵は一目見てそれと分かるような具体性がありません。というのも、絵を描いた人のコメントを読む限り、極めて概念的で目に見えない観念を、自身のクオリアを通して表現している為です。つまり「私はこう思います」と、絵を通して表現している訳です。それに共感できるか否かというのは我々見る側の人間の問題になってきます。云ってしまえば、云いたい事だけ云って投げっぱなしという訳です。
でも、逆にそれが素敵だなって思う訳です。自分の云いたい事、でも言葉に表せない事を絵で表現できるって事が羨ましい。それに理解されようとしていない絵って孤高で気高い感じがしますよね。小説だと、当たり前だけど絶対にできない事です。読み手を意識せずに文章は書けません。自己満足で書いた文章は黙って自分のパソコンに仕舞っておきましょう。だからこそ、そういう在り方が羨ましく感じるのかもしれません。

他の棟は割とダイジェストで見てしまったので、油絵ほど深く考察できませんでした。でも、私の創作意欲を大いに掻き立ててくれた事は確かです。
というわけで、逃避してた京都秘封のポスター制作をそろそろやろうかなと思います。
来週は多摩美術大学の芸術祭に行こうかなと。

こんな星の夜は

こんな星の夜は
全てを投げ出したって
どうしても
君に会いたいと思った
こんな星の夜は
君がいてくれたなら
何を話そうとか


いつものように何となくウォークマンで音楽を聴いていた時、流れてきたこのフレーズ。
ご存知だろうか?
ELLEGARDENのスターフィッシュという曲だ。もう14年も前の曲らしい。
この曲を初めて聴いた訳じゃない。10年程前からずっと好きで、時々聴いていた曲だった。
でも、急に、ふと思ってしまった。


めっちゃ秘封っぽくない?


【スターフィッシュ歌詞】
作詞/作曲 細美武士

おとぎ話の続きを見たくて
すぐ側のものは見えなかった
平気になった媚びた笑いも
まとめて全部 剥がれ落ちるような

綺麗なものを見つけたから
また見えなくなる前に

こんな星の夜は
全てを投げ出したって
どうしても
君に会いたいと思った
こんな星の夜は
君がいてくれたなら
何を話そうとか

ほどけかけてた靴のひもを
いじりまわして気を紛らわす
あと2駅がバカに遠い
諦めないなら焦る事もないさ

綺麗なものを見つけたから
また見えなくなる前に

こんな星の夜は
全てを投げ出したって
どうしても
君に会いたいと思った
こんな星の夜は
君がいてくれたなら
何を話そう

I thought there is no such thing as
Unchanging over a thousand years
I wonder how I could miss it
My friends
I thought there is no such thing as
Unchanging over a thousand years
I wonder how I could miss it

こんな星の夜は
全てを投げ出したって
どうしても
君に会いたいと思った
こんな星の夜は
君がいてくれたなら
何を話そうとか



(ELLEGARDEN BEST 1999-2008 歌詞カードより引用)






音楽って聴いてる時は割と聴き流してしまう事が多くて、歌詞の意味とかあまり考えないんだけど、改めて歌詞カードをまじまじと眺めると発見があって面白い。明るい曲調に暗い歌詞を乗っけてあるのも好きだし、暗い曲調だけど実は幸せな曲だったりするのも好き。そのギャップが良いなって思う。
この曲は、その点非常にシンプルだ。ミドルテンポのしっとりしたサウンドに、少し切ない歌詞が乗っている。

ではこの曲を秘封倶楽部の曲と捉えて見てみよう。
秘封ボーカルアレンジに頻繁に用いられる「星」「夜」「駅」の3ワードが押さえられている。それに、歌詞から想像される情景が非常に秘封っぽい。
この曲の主人公は蓮子だ。何らかの要因でメリーと二度と会えない、あるいは今すぐに会うことが現状困難である、といった状況だろう。サビの感情的な様子とは対照的に、二番のAメロでクールぶってる描写が、そこはかとなく蓮子みを感じる。

ポイントとなるのは英語の部分。
僕の拙い英語力で訳すならこうだ。


千年経っても変わらないものなんて、無いと思ってた
どうして私は気付けなかったんだろう
ねえ、メリー
いつまでも変わらないものなんて、無いと思ってた
どうして、私は気付けなかったんだろう



My friendsなのにメリー1人なの?という疑問を抱くだろう。
friendの複数形、friendsには「友達同士」といったニュアンスが含まれる。つまり、My friendではなくMy friendsと呼びかける事で、一方通行の友情ではなく、二人は友達だったという事が強調されていると考えた。
後悔のような感情を含んだ、独白めいたフレーズの後、ラスサビがやってくる。冒頭でも示したものだ。


こんな星の夜は
全てを投げ出したって
どうしても
君に会いたいと思った
こんな星の夜は
君がいてくれたなら
何を話そうとか



夜空を見上げて佇む蓮子、そんな映像が目に浮かびませんか?
もう蓮子とメリーの事を歌った曲にしか聴こえない。もう歌しか聞こえない。


それはそうとして、スターフィッシュは佳い曲だよね。ELLEGARDENらしくエモい。
他にも佳い曲を作ってるので、聴いてみると良いんじゃないでしょうか。折角今年復活したし。
先ずはベスト盤とか、オススメです。

やっぱり同人業界は危ういなって話

はじめに


 前々から愚痴っていたけれど、同人に商業的な要素が持ち込まれることに違和感があって、何とも形容しがたいモヤモヤとした不信感、焦燥感のような物を抱いていた。
 本記事は、そのモヤモヤした気持ちを言語化して整理することを目的に書かれている。この記事を読んだ奇特な方が居るなら、一緒に考えてみてくれると非常に嬉しい。


「社会規範」と「市場規範」


 先ず、この記事において軸となる「社会規範」と「市場規範」という二つの言葉についてお話する。
 「社会規範」とは助け合いや共同体的なつながりによるものの事。人間の性善説的な側面と云うとやや皮肉に聞こえるけれど、困っている人が居たら助ける、といった人間の原始的な、ウェットな部分に根差した行動を指している。

 対して「市場規範」は等価交換、金銭的なやり取りの事である。物やサービスを得るには金を払わなくてはいけないし、労働には対価として給料が支払われなくてはいけない。要するに、人間のドライな部分に根差した行動を指している。

 我々人間はこの二つの規範が共存した世界で生きている。
 家族や友人に何かを頼まれたら(例えば「貴方の近くにある~を取ってくれ」「荷物が重いから少し運ぶのを手伝ってくれ」なんて云われたら)、まあ普通は気持ちよくやってあげるだろう。大した労力じゃない。他人を思いやる気持ち、社会性や共同体の必要性に基づいた行動することが有るだろう。もしも先に示した例で「じゃあ金をよこせ」なんて云っていたらまともに生活できないのが分かるはずだ。
 一方で、コンビニで何かを買う時、飲食店で食事をする時、金を払わずに「タダにしてください。お願いしますよ」って頼み込んでも、まあ多分無理でしょう。相手も仕事でやっている以上はそういった横暴は通らない。市場のルールは守らなくてはならないし、普通に生活している以上は守って行動しているはずだ。
 これらの二つの相異なる規範は一日の中で体験、実感できる。そして時にそれらは絡み合っていて、一概にどちらの規範かであると断言できないケースもある。

 また、「社会規範」と「市場規範」には明確なパワーバランスが存在する。
 何となく分かると思うけれど、「市場規範」の方が圧倒的に強力だ。金の力は強い。そして一度「市場規範」に支配されてしまうと、「社会規範」に戻る事は非常に難しい。
 例として、イスラエルの託児所の話が分かりやすかったから挙げておく。

・イスラエルに無料の託児所があった。保育園みたいな感じで、朝仕事に行く前に子供を預け、夕方仕事から帰る時に子供を引き取る。

・子供の引き取りの期限に遅刻する親が多いため、罰金を設けることにした。

・罰金を払えば遅れても良いという認識が広がり、更に遅刻する親が増えた。

・罰金を無くして完全な無料に戻したが、遅刻が減る事はなかった。

 何となく想像して貰えただろうか。
 ボランティアでやっていた事に金が絡んだ瞬間、人の認識は「社会規範」をベースにしたものから、「市場規範」をベースにしたものへ完全に移行してしまう。認識の質が変わると態度、行動も不可逆的に変わっていく。
 逆に、今まで有料だったサービスが無料になるというケースはあまり存在しない。というのも、「市場規範」の方が強固で、コミュニティの防衛本能が強いからである。コンビニで売っていたものがある日突然無料になる事は有り得ない。

 「社会規範」と「市場規範」に善悪はなく、それぞれメリットとデメリットを持っている一長一短の関係にある。しかし間違った場所、つまり「社会規範」的なコミュニティへ「市場規範」を持ち込むと、たちまちコミュニティが崩壊してしまうという事を念頭に置いて欲しい。例えば、家族、友人、恋人等の親しい人間との関係で、いちいち金を請求していたら人間関係が崩壊してしまうのは、容易に想像できるはず。


同人業界の規範


 本題に入る。同人業界、同人活動ってどっちなのって話。
 議論の前に、同人ってそもそも何なのかという事を定義しておきたい。おきたかったのだが、明確な定義を示しているような文献が見当たらなかったので、それっぽいサイトから引用させてもらう。

⑴・同人誌(あるいは同人○○)は、同好の士によって自費出版される発行物である。

⑵営利を主目的とはせず、あくまで発表すること自体が目的である。

⑶「作り手」と「読み手(受け手)」の関係は基本的に対等であり、そこに「お客様」は存在しない。

⑷出版にかかる費用はまず作り手側が負担するが、読み手(受け手)側がその一部を負担するために有償頒布という形を取ることが多い(無償の場合は作り手が全て負担することになる)。

⑸内容については限定されない。オリジナル(一次創作)・パロディ(二次創作)の別や、非エロ(全年齢向け)・エロ(18禁)の別、男性向け・女性向け・両方向けの別、媒体(本、CD、グッズ、etc.)の別などを問わず、全てを包括する概念である。

⑹二次創作に関しては、本来であれば原作権利者の許諾が必要である。無許可で二次著作物を作成し発表した場合は著作権侵害となり、「権利者に訴えられて敗訴した場合は」罪に問われることになる。


(意外と知られていない?「同人」の理念(もしくは建前)と実情 ※長文です(http://ch.nicovideo.jp/caz021/blomaga/ar537227) より引用 2018/9/15閲覧)

 恐らくこんな理解で良いと思う。
 ⑵節によれば、同人活動は非営利であり「社会規範」に基づいたものになるが、⑷節によると、金銭のやり取りがある事から「市場規範」的な側面も持っている事になる。しかしながら、同人活動の原点にに立ち返ると、それはファン同士による交流の場という意味合いが強く、営利的な側面を前面に押し出すことはあまりない。したがって、基本的には同人業界、同人活動というのは「社会規範」と見てよいだろう。


同人を侵す市場規範


 ここまで読んでくれた方はもう何となく分かったと思うが、近年の商業的同人は明確に「市場規範」的である事が問題なのだ。
 有名イラストレータが、その時点で最も流行っているコンテンツの作品を描く。これ自体は、その作品への愛があるなら構わないのだが、節操なく次々に描く題材を変えている人間は先の⑵節、⑶節に反している。
 「需要があるのだから良いじゃないか」では無い。
 先も云ったように同人業界は「社会規範」的なベースに、微量の「市場規範」的なシステムを内包したものである。ここに前面に「市場規範」を押し出したものが入り込むと、コミュニティが崩壊しかねない。

 我々作り手側はまだ良い。多くの作家は「社会規範」的に作品作りに取り組んでいる。
 しかし、受け手=ユーザの認識はそうではない。一度、同人業界を「市場規範」的なものだと認識してしまえば、それはもう変えられないのである。
 作り手とユーザの認識の溝は広がり、衰退していくというシナリオは既に完成している。

 以前書いたこの記事も、おそらく同人業界を「市場規範」的にとらえている「お客様」の発言なのだろう。
参考: 貴方はどう思いますか?ご意見、ご感想あったら下さい

 同人というフィールドは危機的な状況にあるだろう。しかし、同人業界はその性質から非常に閉じていて風通しが悪い。自浄作用は期待できない。そして、一度入ってしまった「市場規範」を排除する事はパワーバランス的にもう出来ない。
 ユーザは何も悪くない。悪いのは同人に「市場規範」を持ち込んだ人間だ。でも、今更「市場規範」を排斥しようとしても不可能だし、意味はないのだ。
 何をどうやっても、取り返しはつかない。幾ら作り手が同人にかける想いや信念を語ったところで、ユーザは胡散臭さを感じるだけで終わるだろうし、作り手の想いの乗った作品を手に取る事もない。ユーザはプロの作った商業誌のクオリティを基準に作品を見るため、同人は純粋にファンの交流、意見交換の場としての機能を果たせないだろう。
 もう終わっているので、何をする事も出来はしない。

 以上が筆者が感じていたモヤモヤした気持ちの正体である。


おわりに


 これは行動心理学、行動経済学に基づいた分析であり、この学問が明確に間違っている事が示せない限りが揺るがないだろう。また、これらの分野は筆者の専門ではないので、建設的な解決策や、何らかの展望を示すことは難しい。
……
 まあ、この問題はユーザにとっては本当に全くもってどうでもいい話である。寧ろ、「社会規範」的に活動する人間が淘汰されれば、同人のフィールドで手に入る作品の質は上がるので、好都合かもしれない。買いもしない、買う気も起きない、名前も知らない作家がスペース取っているだけ邪魔でしょうし。
 既にそれが本来の同人の意味合いを失っているものであることは間違いないが、時代を経て変わっていくものなんていくらでもある。
 同人の「市場規範」化も時代の流れだというのならしょうがない。
 「市場規範」に飲まれて消えていく作家の存在が、その人の作品を買った誰かの心の片隅にあるなら、それは作家冥利に尽きる事だろう。
 筆者も、そう在りたいと思っている。



参考文献
・予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
Dan Ariely (原著), 熊谷 淳子 (翻訳)

レズセックスはセックスなのか?

最近、百合というジャンルが市民権を得てきた気がする。百合を扱った漫画は着実に増えているし、それらがアニメや映画に発展する事もある。大型書店では百合作品のコーナーが出来ている。百合展なる展覧会も紆余曲折を経て開催されている。
確実に、以前よりも百合というジャンルに属する作品を目にする機会が増えているだろう。百合の愛好家として、とても嬉しいものがある。

そんな市民権を得た百合に関して、少し思うところがある。それはタイトルにもある通り、「レズセックスはセックスなのか?」という問いだ。

何云ってんだ?

ここでのセックスは「人間的本能(性欲)に基づいた性行為」と定義する。
ところで、どこかで聞いた話なのだが、オタクが二次元のキャラクタを愛でるのは性欲から来るものらしい。虚勢すると、二次元のキャラクタに興味が無くなるのかな?
性欲って云うのは思ったよりも広い範囲で人の生活に根付いていて、これを排除することはまず不可能だろう。

さて、ここで問題だ。
百合に限らず、同性愛というのは性欲から生じるものなのか?
機能的に子供は出来ない。セックスは出来ない。出来たとしても、それは形式的なもの。子供を作ることをセックスの意味とするならば、その行為に意味は無いだろう。
確かに、パートナーとのコミュニケーションとしてのセックスは有ると思うんですよ。でも、それって結局は人間の根底にある欲求、性欲から生じてるものなんじゃ無いのかな。その辺は人の主観でしか計れない以上、分からないけれど。


少々昔話を。

筆者の後輩にバイセクシャルの男が居た。素行はあまり良くなかったが、高身長でイケメンだ。そんな彼が、きっかけは覚えていないけれど、自分がバイであることを話してくれた。特に驚かなかったと思う。驚く程に自然に受け入れられた。
彼は、性同一性障害の“彼女“が居るんだと写真を見せてくれた。(“彼女“は体が男性のもので、心は女性ようだった)
更に、彼は彼氏が欲しいとも云っていた。元気だなって思った。
筆者はヘテロセクシャルなのでよく分からないのだが、彼氏が欲しい季節と彼女が欲しい季節が有るらしい。興味深いメンタリティだが、ここではその話を割愛する。
「その子、好きなんだ」と月並みな、質問であるかも怪しい問いを投げると、彼は晴れやかな顔で「はい」と云った事を今でも覚えている。


その時、綺麗だなと感じた。何が綺麗なのか、その時は全く分からなかったのだが、確かにそう感じた。
今思うと、彼の「好き」が人間の本能的な部分に基づかない「好き」だから、綺麗と感じたのではないだろうか。人間的な機能とは関係の無い、心から生じた、純粋な「好き」がそこには有ると思う。


閑話休題。

彼の例を挙げて云いたかった事は、同性愛は人間的本能では無く、心から生じたものであるように感じられるという事。
彼らは、恋愛において、人間であるという拘束条件に縛られないのだ。自分の恋愛感情は、自分自身のものだと云い張れるのだ。
それが、少し羨ましく思う。


だらだらと書いたのだが、要するに、レズセックスはヘテロセクシャルにおけるセックスとは違った意味合いを持っていると筆者は考える。
レズセックスはセックスじゃない。無意味だからこそ意味が有る。それを、「尊い」って表現するんじゃないだろうか?


以上、原稿に行き詰まって殴り書きした何かでした。

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Author:clown
動物も居なければ、トランポリンもブランコも無い、道化師1人の演目を御覧あれ。


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